前回、「今どきの就活って憂鬱だね」っていうエントリを書いたのですが、それに関して思い出したこと2点。
今どきの就活って、人が人として生きていくための基本ともいうべき自己肯定感、社会に対する無条件の信頼感みたいなものをぶちこわしちゃう構造になってるんじゃないかっていう感想を書いていたんですけど、その仮説を補強するような話を思い出した。
ひとつは、孤児院の子どもたちの死亡率が、一般家庭の子どもたちのそれ比べて有意に高いっていう話です。どこで聞いた話なのか忘れたし、今から一次データを探す元気もないんですけど、ありえる話かもしれない、と考えてます。日本の孤児院だったら、特別に栄養状態が悪いとか、医療がまともに受けられないとか、そういう環境ではないはず。衣食住はちゃんとコト足りて、学校だってそれぞれの個性や能力に合ったところに行くくらいのことはできていると思うんです。私大の医学部に行きます、なんていうのは無理だろうけどね。
なのに、死亡率が高いらしい。確かその話を聞いたときに指摘されていたのは、子どもが風邪こじらせて肺炎になったりするとあっけなく死んでしまうような事例が、一般家庭よりも多く起きているということでした。医者にも診せてるし、投薬もしてるのに、なぜか孤児院の子どもの方が命を落としやすいそうで。
これもね、見返りを求めない親のからの愛を十分に受けなかったことが理由の一つじゃないかと思うんですよ。無条件に「自分はこの社会で受け入れられているんだ」と実感する機会が十分でなかった。自己肯定ができていなかった。それが生命力の差になってしまうんじゃないでしょうかね。
もうひとつ思い出した話。これもどこで聞いた話なのか忘れてしまってるんですが、だれかが「母親が亡くなってから、本当に自分の人生が始まった気がする」っていうのを言ってた(か、書いてた)。まだ両親が健在な私がこの話を「分かります」なんていうのは思い上がりだろうし、本当のところはそのときが来ないと実感できないんでしょうけど、それでも、そういうこともあるかもね、と思ったんですよ。
この世に生を受けてから接する最初の人、その先に広がる人間社会への最初の窓口となる人が、母親ですよね、普通。この人から無条件に愛されることで、子どもたちは生きていくことができる。社会が自分が生きていくことを肯定してくれている、それどころか、積極的に生かそうとしてくれる、という実感を、まずは母親から学んでいくのだと思うんです。自己の存在を確認するための、最初の他者が母親。
子どもは学校に入り、社会に出て行くにしたがって、自分の世界を広げていくんですけど、社会に対する信頼感の根っこは両親、特に母親にあると思うんですよ。
そして、その人が亡くなる。そのとき、自分は自分が切り拓いてきた世界と、それまでに培ってきた経験を以て、社会に対する信頼感を確立できているのか、自己の存在を肯定できるのか。足場を組んで建てた塔から、初めて足場を外すときのような危機感があるのだと思う。その塔は足場がなくてもスクッと立っていられるのか。「本当の自分の人生が始まった気がする」って、足場が外されて、まさに「自立」することが求められることなんでしょう。
就活の話から始まりましたが、最後はなんだかマザコンについての分析みたいな話になってしまいました。
2 comments:
このエントリーがたまたま最近見た精神科医・北山修さんの心理学、精神分析の話とかなりリンクしました。
まず母親が人間社会への窓口となり、また生きて行くことを肯定し自己の存在を確認するという話ですが、
北山先生の話の中では
母と子が一緒に肩を並べて世界を共視し非言語的に伝わる二者間内交流「共に思ったり・情緒的交流・身体的交流」は非常に重要であるという事。
ところが母親が何らかの理由で機能していなかったり不在・病気の場合などで「これから生きていくこの世界はおもいろいよ」と二者間で照らし返さなかったり、面白い物を探している子共の想いに答えられなかったりする事は悲劇的だとの事でした。
子供は母や信頼できる他者にであって他者に照らし返してもらった物を心の中に取り入れて心の中の自己イメージとして生きている。これが鏡としての母親の機能であり、
母親の瞳は赤ん坊にとって自分を映し返す鏡である。
これが母親から学ぶ貴重な心理療法ということでした。
これが文中の
「これもね、見返りを求めない親のからの愛を十分に受けなかったことが理由の一つじゃないかと思うんですよ。無条件に「自分はこの社会で受け入れられているんだ」と実感する機会が十分でなかった。自己肯定ができていなかった。それが生命力の差になってしまうんじゃないでしょうかね。」
という箇所にリンクしました。
それからこちらの話も、
「母親が亡くなってから、本当に自分の人生が始まった気がする」
「本当の自分の人生が始まった気がする」って、足場が外されて、まさに「自立」することが求められることなんでしょう。
これは
「いなくなるから取り入れられる」
という心理学で、母親もいなくなるから取り入れられる、消えずにいつまでもダラダラとくっついているお母さんは心の中に取り入れられない、うまく消えるから取り入れられる。
これも教育の一つの効果である。
というお話でした。
Kenさん精神分析家のような鋭い推察力ですね。
>Suyamaさま、
私がぼんやり考えつくようなことは、すでにちゃんと専門家に語られている、ということですなぁ、それももっと精緻な言葉で(苦笑)。
北山修先生の本、一冊くらい買ってみようかと思います。
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